昭和40年04月21日 朝の御理解
限りないお恵みを受けておる私たちと。限りないお恵みと、限りない天地のご恩恵というものが、私共の生活の上に、それが実感できておる。その限りないお恵みが、いよいよお恵みであるという値打ちを分からせていただくために、また、それを現していくために、私共は信心を分からせてもらい。ものの道理と、道理を見て、そこを体験させてもらい、それを事実の上にです。ほんと限りないお恵みを、こうして、浴していける、受けて行けれるという、おかげを実感させて頂いて、初めて、天地のお恵みに対して。
いわゆる神恩報謝、神様のご恩に対し奉って、お礼の毎日が過ごしていけれるんだと。みんなこの、例えば天地のお恵みを、限りなく受けてと申しますけれども、それを本当に、限りないお恵みとして、それを頂いておるという人は非常に少ない。言うておるけれども、それを生かし現すことを知らないからなのです。昨日は、皆さんもご承知のように、二十日、菊栄会でございました。
何時も春、秋の大祭を終わらせて頂きますと、その月の二十日ですから十六日から三、四日たった二十日の菊栄会を私、菊栄会の皆さんが、私をまあ慰労して下さる意味合いにおいてですね。どっかその銘々に自動車を持っている方達ばっかりですから、自動車であっちこっちを見物させて下さったり、または美味しいものを食べさせてくれる所を研究しておいて、それでそこへ連れて行って下さったりと言う様なこれは、毎年のこの二回だけは菊栄会の方たちの行事になっているんですよ。
昨日も、その前々からお届けがしてございました。どうぞ今年もそのおかげを頂かせていただきますようにということであったけれども、今年はちょうどその前々日だったでしょうか、久留米から古賀さんという方が毎日、ここ一年あまりですかね日参してあります。その方が、ここへ参りましてからあの、こんな話をしてるんですね。見事なこの真珠のネクタイピンをはめておられました。それで、このほど自動車の試験に行かれてその、落としてしまわれた。
それで、先日から商用で長崎のほうへ参りましたから、その代わりのものを何か求めなければと思っておったら、長崎に参りますと、鼈甲が有名ですからね。鼈甲のプラチナ台かなんかの、見事なそのネクタイピンをしておられます。それがあのう鼈甲というのは、親先生を意味することだと。亀というのは。だからその亀を親先生の、いわば信心を自分の胸に何時もこう着けておくと、そういう意味合いで先生これに代えさせてもらったんですよといってからその見せて下さったんですよ。
そら見事です。私は鼈甲とは知らなかったんです。そしたら鼈甲のネクタイピンをなるほどはめておられます。そういうようなお届けがあっておりましたその翌日に、会長である、正樹さんを初め六人の方たちが全部、月次祭の日ですたい十八日の。あの晩にここへ全部出てまいりましてから、その明後日に控えておる二十日の菊栄会を、どこにやらせて頂いたら良いか、どこをどういうような、まあ何時もそのいろんな、その同じ方ではないです。様々なま、研究されるわけですね。
例えばその、やまなみハイウエイに、例えば行くとか。焼き物の窯場めぐりをするとか。といったようなその、私が、ほんとに心も、身体も休められるというか、その、そういう事をまあ、目的にして、まあその、結局八名の、七名ですか、のかたたちがもう、ほんとに寄ってたかって、私をその日だけは楽をしてもらいたいという願いのもとにそれがされるという。今年は、それをどこでどういうふうなアイデアの元にです。
やらせて頂いたら良いかというお届けがあったんですよ。そしたらその、前の日に古賀さんがですね。私に、そう話された、その時の情景を頂くんですねえ。いわゆる、このお、次にこの、真珠から鼈甲のそれにこう、取り替えているところを頂くんです。まあ、ここでは、親愛会という会員の皆さんがです。「ね」。あのう私様々なあの貝ですね。例えば蛤とか。サザエとかまたシジミ貝とか、「ね」。いろんな貝。その貝で、その人の信心性格を教えて下さるんですね。
まあ、蛤のようなお知らせを頂いた人はなるほど、蛤のような味わいの信心を致しますよ。はあ、この人は大きな信心を(げいきょう?)させなはって大きなこうほら貝のような貝で下さる。ところがその人は、中身がない口ばっかり。いわばほら貝の人もあるんです。「ね」。それかと思うと、ほんとに身は食べられなくてもですたい、その中にあるところの、真珠のような、もう宝石にも似たようなものを、その内容として持っておられる人達もあるんです。
皆さんは自分はどういうような貝で、親先生がお知らせいただいてあるだろうかと、一つ思うて見て御覧なさい。「ね」。そういう意味合いにおいて、椛目の私は菊栄会はまあですね。荒削りながら本当に内容を真珠と。的な内容を持っている人達の、大体集いだとこう思います。そのようなお知らせを頂きましてからです。ははあこれはその事を私は、あの自分達でどこへ、ここへというふうにその言わずにですね、親先生を中心にしていわゆるその鼈甲を中心にして、今度のことは成されなければならないと私は思ったから、その事を伝えさせてもらった。
そしたら、だいたい、どういうところに焦点を置いて、そういう決めたらよろしゅうございましょうかという事になった。そしたら、静かというじを一字頂いた。だからもう、静かーな、こう何か山の中にあるような一つ宿屋か何か、その、あんまり俗化しない、そういうところで私は、ぐっすりもう、何を言っても休ませて貰うとが一番私はその、極楽のごたるから。まあ、あなた達がおかげ頂くならば、そういうところに焦点を置いて、おかげ頂いたら良かろと私は申しておりました。
それで昨日の朝まで、どこと私は知りませんでした。そしたらそのどっか萩の上のほうに、山のホテルというのが有ると。そらもうおご馳走は無い。もう川魚の料理とカシワだけを食べさせるので有名なその温泉がある。そこは非常に静かだということですから、そこに決めましたとこう言う。そげな事を言うて、昨日、十時ごろからですたい。「ね」。参りました。一行私とともに八名でございました。
その、車の中でですね、けど、今から参りましてもその、あんまり時間が向こうであり過ぎてから、ですから、丁度小石原へ参る道すがらですから、ちょっと小石原の窯場めぐりでも致しますかと。あっちには、民芸館がありましてから、見事な建築やら、良い民芸品が陳列してございますころがあるんですが、そこでもほんなら見に参りましょうかと。丁度それから、三、四里、三里ぐらいですかねえ。
萩から参りますところに、小石原と高取の窯元がございます。前にも一回参りましたが、やっぱり二度行けば二度行ったで、結構愉しい雰囲気。もうそれから色々観賞させても頂いたんです。それから、丁度その、杉、杉の、いや、ホテルですかね、あちらは。何時も夜やらのホテルです。そこへ着かせていただきましたのが、もう四時もございましたでしょうかねえ。
それから私は、早速あの、兎に角私は、風呂は入るのにも何するにも、兎に角、しばらく休ませて貰う、一人静かに休みたい。なら、そうして下さいと言うてから、別に、一部屋とって頂いておりました。そこがなんと、静亭という、茶室風の離れの一室でした。はあ、今崎さんが、親先生ここでしたな、親先生が休んでいただくところは。静かな亭と書いてある。もう、離れて、ほんとに静かな、まあ、私の求めておるムードにぴったりのそのところなんです。
そこで、まあ、ひげを当たってもらったり、皆であんまをして下さったりしとるともう、私はもう眠ってしまって、それから二時間半ぐらい休んだらしいです。丁度、夕食前、それからお風呂頂いてから、まあ夕食を頂いた。まあ、昨日一日そういうような、神ながらな中に、おかげを頂いてまいりましたんですけれども、今日私が、皆さんに、聞いていただきたいと思ったのは、そこで私が、見たり、聞いたりしたことの中からです。只今、今朝の御理解を頂いておるんです。「ね」。
限りないお恵みと。限りないお恵みを、いわばもう、燦燦として受けておるのであり、頂いておるのであるけれども、ほんとに、限りないお恵みを頂いて有難いというのなら、ほんとに限りないお恵みを頂いて有難いというものが、実際に現れておらなければ駄目だということ。皆さんも、あちらへおいでられた方がございますでしょうけれども、この、石をこう、粉にするやつですね。
あの、山からひいてある、いわばお恵みの言うなら水が、もう限りなくその、かけしを通って出ておるわけです。それに船みたいので作ってある、えらの、ギー、ゴトン、ギー、ゴトンと言うてその、室の中にいっぱいに入りますと水がザーっとこぼれる。そしてその臼の中に入っておる石をこう、粉にして行くわけなんですねえ。もう、限りが無いのです、これは。それから、私はまたその、静か亭の庭にあります。
あっちにもここにもあります、かけしをやっぱりこの伝うて、限りないやっぱりお水がそのかけしの、手洗いの石の中にずうっと落ちてるんです。それと是とを私は思うて見ました。片一方はギーゴトンで、そのお恵みの水がバーっと掛かると、もう次には新しい水が入っておるという事。ははあ限りない恵みを生かすという事はこの事だと。限りない恵みが、ここに一杯貯まったらどっかにこのこの働きがあっておる。
ここでこの働きが。ところがほんなら、ああその茶室に使ってある、手洗いのその、やっぱり、ここのお手洗いのような、あんなふうにしてあるですね。で、その、水がずうっと流れておる。ところが、ただそれは、見るだけのようなものといやあ、それまでせすけれども、この、石が洗ってあるわけではなし、中身が何時も綺麗にさらえられておる。ただ、お恵みの水が限りなく出ているというだけで、ほんなら、柄杓をつこうて、自分が飲んで良いような水ではない。
ならばそれをただ柄杓に受けて、飲むのは飲まなければならんのであり、手を洗うならば柄杓に受けて、この中に貯まっているのは全然使われないということ。「ね」。如何にこのギーゴトンという働きの元にです。これが一応ずうっと返される。同時にこちらのほうでは、そうした働きがあっておる。「ね」。例えばその水車小屋のあれと同じです。こちらにいわば、その組が綺麗に、掌握されていきよる。「ね」。
小石原の場合は、それはギーゴトン、ギーゴトンというたびに、こちらのいわば、土ですか石ですかが、粉になされていきよる。しかもお恵みの水は、限りが無いのである。しかも何時も新鮮な水が取り替えられておるということ。ははあ限りないお恵みとか、限りないおかげを頂くという事はです。しかも頂いたそのおかげが生かされてこそ、初めて本当のこの、働きというものが出来るのだということ。ただ茶室に使ってあるお恵みの水を受ける、あの手洗いの水がです。手洗いそのもの。
例えば椛目の場合なんかは、毎日綺麗に洗いますからねえ。その貯まっているもので、皆さんがお口をゆすがれても頂かれても、綺麗になってるんですけれども、普通、茶室なんかで使っているのは、ただ、上からの水がただ落ちているというだけ。中には、木の葉がいっぱい沈んでおったり、垢がたまっておる。とてもそれを口につけて飲みたいという気持ちはしない。
手を洗うでも、やっぱり上から落ちているのをまって、その柄杓に受けて使うほかにはない。いわゆるこの、ギーゴトンの働きがあってないということ。ギーゴトンと言うて交わすということは、ここに一つ、そういうものの働きというものがです。「ね」。お粉にし、ひゃくにして行くとか、土が粉にされていくとかというその、働きをさせていただきながらです。
いわば、何時も新鮮なお恵みの水をしかも、限りなく受けていき、そして生かしていくとはそういうようなことではなかろうかといったようなことを、私はその事の中から感じさせて頂いたんです。どうぞ皆さん、その事の、いわゆる、人間は万物の霊長であるから、万物を見て、道理に合う信心と仰る。道理に合う信心をさせて頂かなければです。今日、今日じゃない、私が何時も申しております、限りない恵みを恵みとして、本当に、実感させて頂けれる、おかげは受けられないと私は思うですね。
おかげ頂かねばいけません。